横浜国立大学理工学部建築都市環境系学科卒
一級鉄筋技能士
日本という国は、世界でも稀にみる宗教に対する信仰心が希薄な国です。
その為、生まれたら神社でお宮参りをし、死ねば僧侶にお経をあげてもらいます。クリスマスにはツリーを飾り、サンタクロースのコスプレをし、パーティーを楽しみます。キリスト教徒でもないのに教会での結婚式を希望する方も少なくありません。
そして、海外来た方がよく驚くのは、この国には神道・仏教・キリスト教・イスラム教の宗教施設が当たり前の様に隣接していることです。このように様々な宗教を柔軟に受け入れている民族は数少ないです。
そこで、今回は建築と宗教という観点から日本に根付く有名な3つの建築物について、歴史を交えながらお話ししようと思います。
目次
【出雲大社】日本一の高層建築は出雲大社だった?
画像引用:雲太・和二・京三
「雲太・和二・京三」という言葉があります。
これは、平安時代の高層建築の番付のことで、一番高いのが雲太(出雲大社)、2番目が和二(東大寺大仏殿)、3番目が京三(平安京大極殿)と言っているのです。
つまり、平安時代には出雲大社が日本一の高さだったということを示しています。
平安末期に東大寺大仏殿が焼失し建て直されているのですが、それ以前の大仏殿の高さが約45mということですので、それより高い出雲大社は一説では約48mあったと言われています。
しかし、15階建てのビルに匹敵するほどの高さの神殿を、古代人が建てられるはずがないという思い込みと、耐震・構造・技術などの観点から、ただの伝説と思われていました。
約48mの超高層神殿
画像引用:古代の出雲大社
出雲大社の創設は古代の国譲りにさかのぼります。
古事記によれば、天照大神からの使者が大国主命の下におくられ、神武天皇のために国を譲るように迫ります。大国主命は抵抗を試みますが、2人の息子を殺され、これ以上の抵抗は無駄と考えました。そして、高天原に届くほどの高さの神殿に自分をまつることを条件に自害をしました。
そして建てられたのが約48mの高層建築というわけです。
1989年大林組は中世に残された資料をもとに検証を試みます。
その結果、当時の技術でも構造的には十分に建築可能であり、20年間に7度倒壊したという伝説も、地盤の問題であり構造的な問題はないとなりました。
しかし、これはあくまでもシミュレーション上の話で、CGで再現できたとしても実際に存在したかどうかを実証できたわけではありませんでした。
その後時を経て、2000年に本殿近くを掘り返したところ、出雲大社宮司の出雲国造家に残された「金輪造営図」という平面図に記された柱と同じように、3本の柱が同じ場所に埋まっているのが見つかります。
こうして、大林組のシミュレーション通り、高さ約48mという15階建てビルなみの高さを誇る大神殿が存在したことが証明されました。
【四天王寺】仏教が政治に大きくかかわり始めた
日本書紀によれば西暦552年、欽明天皇の時代に百済から釈迦如来像や経典、仏具などが献上されたことが仏教伝来の始まりとされています。
そして、推古天皇の時代に「三法興隆の詔」が発令されて、天皇が初めて仏教を公認しました。
その後、桓武天皇が政教分離を行うまで、仏教は政治に大きくかかわることとなるのです。
聖徳太子が夢見た仏教世界
日本で最初に建てられたお寺として四天王寺が有名です。
このお寺は聖徳太子が百済からわざわざ工匠を招いて建てさせた、最初の官寺(天皇直轄の寺)です。
聖徳太子と言えば、法隆寺が有名ですが、法隆寺は聖徳太子が政治の舞台から退き、斑鳩宮に移り住んでから建てられています。
彼は、冠位十二階の制定や十七条憲法の制定など、政治手腕を発揮していますが、後年斑鳩宮に移住し、政治の表舞台からは姿を消します。
その代わり、高句麗から来日した恵慈(えじ)という僧に師事し、仏教を学び3つの経典の注釈書を記して、日本に仏教を広める活動をしているのです。
更に、四天王寺・法隆寺をはじめ、聖徳太子七大寺と言われる寺院建立にも心血を注ぎました。
聖徳太子の仏教への帰依は十七条憲法にも強く表れており、第2条に「篤く三法を敬え」とあります。
この三法とは仏と法理と僧侶のことで、仏教をもって政治を行う方針の表れでもあるのです。
神が救いを求めた仏
時が下って奈良時代、第45代聖武天皇の時代。
皇太子の逝去、政治権力者による謀反の発覚、天然痘の流行と皇后の兄弟の死去など、国の混乱が続き4度もの遷都を繰り返します。それでも国が収まらず、仏教による統治を試みることとなりました。
まずは、国ごとに国分寺と国分尼寺の造営をし、国家平安のための祈りをさせ、次に大仏建立を発表します。49歳で娘に攘夷し、天皇として初めて出家をします。
神でありながら仏に帰依することで、世の中の混乱を収めようとしたことが、更なる仏教の隆盛へとつながっていくのです。
【旧野首教会】日本の大工がアーチ建築に挑む。潜伏キリシタンが手に入れた宗教の自由と木造教会
画像引用:旧野首教会外観
最後にご紹介するのは、長崎県にある旧野首教会です。
日本にキリスト教が伝来したのは1549年、室町時代の終わりごろです。この頃は、寺院などの抵抗もあり、九州地方を中心に布教活動が行われています。
安土桃山時代になると、織田信長が宣教師ルイス・フロイスの布教活動を認め、京都や安土城城下に神学校や教会学校の建築も許可しています。
しかし、豊臣秀吉の時代になると禁教令が発布され、キリスト教徒の迫害が始まり、さらに徳川が権力を握ると鎖国へと時代が変わり、キリスト教徒はその信仰心を隠さなければならなくなったのです。
潜伏キリシタンが移住した離島の教会
画像引用:旧野首教会外観
多くのキリスト教徒は潜伏キリシタンとして、役人にその信仰がばれないような工夫をしながら、長い迫害の時を送ることとなります。中には、生まれ育った土地を捨て、離島の開拓民として移住する人もいたそうです。
今回ご紹介する旧野首教会が建つ野崎島もそんな潜伏キリシタンが移住した離島の1つです。
特に、江戸時代があと数年で終わるという時に島民の多くが強制改宗を迫る拷問を受け、しかも、集落は荒らされ家財道具も略奪されました。
明治に入り、やっと信仰の自由を得て初めて教会堂を建てることが出来ました。1882年(明治15年)のことです。
その後、煉瓦造りの教会建築を希望する集落の住民が一丸となり、建築費用3,000円を貯め、1908年(明治41年)念願の教会を手に入れました。現在のお金に換算すると、実に2億円と言いますので、かなりの額といえるでしょう。
建てられた教会は、ステンドグラスのはまる窓と漆喰で白く塗られた美しい壁の煉瓦造りですが、木造の柱が天井を支え、その柱には美しい彫刻が施されています。
しかも、アーチ形の天井を、木を使って見事に表現しているのです。
当時の教会建築の第一人者と言われた名工・鉄川与助の設計・施工によるもので、現在は世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の1つとして登録されています。
まとめ
今回ご紹介した以外にも、歴史的な宗教建築物はまだまだ沢山あります。勿論、建築額分野として、その工法や技法など興味深い建築物も少なくありません。
この記事を読んで興味を持っていただけたら幸いですし、この歴史ある建築物の保存にも興味を持って頂けたら、なお幸いです。