横浜国立大学理工学部建築都市環境系学科卒
一級鉄筋技能士
日本では、伝統文化や伝統技術を守りその技術を受け継いでいく者を「匠」と言います。
「匠」と呼ばれる人たちの中には、建設業界でその腕を振るう方も少なくありません。
彼らは高い技術を持ち、歴史を重ねる中でその技術を磨き続け、現代の「匠」に受け継がれているのです。
しかも、その技術によって古代に建てられた美しい寺院の姿を、そのままの姿で残し続けているのです。
今回は、その期限を紐解きながら現代にも受け継がれる日本の「匠」の技術が光る3つの建築物をご紹介します。
目次
【三内丸山遺跡】等間隔に並ぶ柱と縄文尺、縄文人の天文知識と数学知識の高さ
縄文時代と聞いて皆さんは何を思い浮かべるでしょうか?
縄文時代は今からおよそ12,000年ほど前から紀元前3世紀ごろまで続いたとされる時代で、遺跡からは縄目模様の土器のかけらや、宇宙人と見まがう形をした遮光器土偶などが発掘されています。
当然、現代まで残っている建築物はあるはずもなく、再現された竪穴住居を見てもそれほど高度な文明や技術があったようには思えないでしょう。
ですが、縄文時代に生きた人々、縄文人は驚くべき技術を持っていたのです。
縄文尺とは?
縄文遺跡として有名なものに三内丸山遺跡があります。
この遺跡では、6つの等間隔に並んだ巨大な穴が発見されています。
その直径は約2m、深さも同じく約2mで、穴と穴の間隔は全て4.2mです。
この穴には直径1m程の栗の木の柱が残っていたことから、柱を立てるための穴であり、高床式建物が建っていたのではないかと考えられています。(大型掘立柱建物跡)
そして、この穴の間隔を測るために使われているのが「縄文尺」なのです。
縄文尺は約35cmで、縄文時代の建物跡はこの35cmの倍数によって造られていることが分かっています。
つまり、縄文人は私たちが考えるよりも優れた能力を持っていたということなのです。
石柱文化と天文学
先ほどご紹介した6つの柱の穴。
実は、ただ等間隔に並んでいるわけではなく、それぞれの柱の経っている位置も計算された位置なのです。
前項の図を見て頂くと判る通り、季節によって太陽の昇る方向が変わることを既に理解していたことが分かるでしょう。
縄文人が天文学を理解できていたという証拠の1つとして、男鹿地方にある「大湯環状列石」があります。
県道を挟んで向かい合うように配置されている2つのストーンサークルの中に、それぞれ日時計の様な石柱を配した組石があり、この石柱を一直線に結ぶと夏至の日の日没の方向を指しているのだそうです。
これらの遺跡を見れば、縄文人が太陽の運行を理解し、1年の季節を把握していたことが分かります。
【法隆寺】五重塔に見る免震構造
さて、時代は下って聖徳太子が活躍していた飛鳥時代の建築技術についてお話をしましょう。
聖徳太子が建てたお寺として有名なのが奈良県にある法隆寺です。
特に、五重塔は法隆寺の象徴ともいえる建物であり、木造の五重塔としては世界最古としても有名ですね。
法隆寺が建立されたのが推古15年、西暦607年で、今から1400年以上も前ということですので、この五重塔は1,400年以上当時の姿のままこの地に残っているのです。
過去の文献などを見ると、関西方面では平成7年1月に発生した阪神淡路大震災以前にも、何度も大震災に見舞われていることが分かっています。
例えば、江戸時代に起きた伊賀上野地震と安政大震災。
当時の記録から、伊賀上野地震は三重県伊賀市近辺を震源とするマグニチュード7.3の大地震、その半年後に発生した安政の大地震は駿河湾から遠州灘沖、熊野灘にかけて、改定を震源とするマグニチュード8.4の巨大地震が発生しているのです。
それにもかかわらず、五重塔が倒壊したという記録はなく、現在まで残り続けているのです。
古代の免振意識
では、どうして五重塔が現在まで倒壊することなく残り続けることが出来るのでしょうか?
法隆寺の五重塔をはじめ現存する江戸時代以前に建てられた五重塔の構造を研究すると、幾つかの免震構造が見えてくるのです。
例えば、心柱。法隆寺の五重塔では底部を地中に埋めていますが、それ以降に建てられた五重塔の多くは礎石の上に置かれていたり、途中の階に建てられたりと、底部が固定されておらず建物の揺れに合わせて動くようになってます。
また、五重塔を形作る各層はそれぞれが独立した構造で、一見すると手抜き工事のようにも見える作りです。
更に、心柱とつながっているのは最上部のみでそれぞれの層は心柱を支えとしていないのです。
その為、地震によって各層が自由に動くため倒壊を待逃れていると考えられています。
実は、すべての謎が解明されていない五重塔の免震構造ではありますが、現代の鉄塔にその技術が受け継がれているのです。それは、スカイツリーです。
中心部に心柱を立てオイルダンパーによって鉄骨造の塔体と接続させることで、地震の揺れに合わせて心柱が揺れても塔本体が寄れないような構造となっています。
【京都御所】現代にも受け継がれる寝殿造りの技
最後にご紹介するのは、京都御所です。
京都御所の歴史については、環境省が以下の様に書いています。
「794年(延暦13年)、桓武天皇により定められた平安京の内裏(皇居)は現在の京都御所から約2kmほど西にありました。しかし、度重なる内裏の焼失により、主に摂関家の邸宅を一時的に皇居とする里内裏が置かれるようになり、1227年(安貞元年)の火災以後は、元の位置に内裏が再建されることはありませんでした。現在の京都御所は、里内裏のひとつであった東洞院土御門殿に由来するもので1331年(元弘元年)、光厳天皇がここで即位されて以来、御所とされたものです。1392年(明徳3年)の南北朝合一によって名実ともに皇居に定まり、明治に至るまでの500年もの間天皇の住まいでした。」
さて、京都御所は明治天皇が当時の江戸城、現在の皇居に入られてからは誰も住んではいません。
実は天皇陛下が京都へお帰りになられた際には、京都御所にご滞在になられるため、現在も宮内庁が中心となって御所のお手入れをされているのだそうです。
檜皮吹き屋根とそれを支える職人技
京都御所内のそれぞれの建物や塀などは、幾度もの落雷による火災などによって焼失しては再建されています。
ですが、建物の形状や材質が変わることはなく、特に御所の中心となる紫宸殿をはじめ幾つかの建物の屋根は未だ檜皮葺きなのです。
その為、定期的な葺き替えが必要となり、現在でも葺師(ふきし)と呼ばれる職人がその技を使って葺き替えています。
檜皮葺きに使われているのは桧の樹皮で、この樹皮を採取する専門の職人が居ます。
原皮師(もとかわし)です。
現在では全国で200名程度となった職人ですが、京都御所をはじめとした檜皮葺きの建物を維持し続けるには欠かせない職人の1人なのです。
採取された桧の皮は、皮切師(かわきりし)と呼ばれる職人によって加工され、屋根材になります。
最後に葺師が加工された桧の皮を使って屋根を葺いていきます。
美しい曲線屋根を作り出すため、重ねる部分の寸法は一定に保たれ1枚1枚竹釘を使って屋根桟に打ち付けていくのです。
この時、職人は左手で檜皮を抑え、右手に金槌を持ってるため口の中に大量の竹釘を含み、1本1本リズムよく吐き出しながら打っていきます。
この技は、代々の職人によって編み出され、受け継がれてきています。
因みに、竹釘は孟宗竹を使って竹釘師によってつくられるそうです。
屋根だけでもこれだけの職人たちによって京都御所は守られているのですね。
まとめ
古代とはいえ、侮れない技術と知識がその建築物に注がれていることが分かりますよね。
特に、法隆寺の近隣には宮大工たちが住んでおり、傷んだ部分を解体しては修復していたと言いますから、創建当時から解体補修をすることを前提として建てられていたことがうかがえます。
そう考えると、当時の工匠たちは素晴らしい技術だけでなく知恵や知識も持っていたのですね。
その技術や知識、知恵は宮大工をはじめ多くの職人に引き継がれ、現在でも多くの神社仏閣などの古い建物の姿を残し続けているのです。
その古い技術や知恵を過去の遺物とするのではなく、未来に受け継いでいくこと、そして現代の建物に応用していくことが今後の課題と言えるでしょう。