横浜国立大学理工学部建築都市環境系学科卒
一級鉄筋技能士
19世紀末から20世紀初頭のヨーロッパで起こった2つの美術運動は、2つのモダニズムを生み出しました。
アバンギャルドの急先鋒と言われたマッキントッシュの機械的なモダニズムと、丸・三角・四角の3つの形状と赤・青・黄色の3原色を基礎としたバウハウスのモダニズムです。
この2つのモダニズムは、全く違う国で違う人によって築き上げられたもので、一見関係がないように思われます。
今回は、2つのモダニズムに焦点を当て、現代の建築につながるような機能的なデザインがどのように生まれたのか見ていきましょう。
目次
マッキントッシュの機械的なモダニズム
画像引用:ヒルハウス
19世紀後半、植物や虫などをモチーフとした曲線美を作り出すアール・デコに飽きた建築家たちは、新たなデザインを求めました。
ドイツやウィーンなどで始まったその気運はスコットランドのグラスゴーでも高まり、チャールズ・レニー・マッキントッシュという新たな建築家を生み出したのです。
モダン的建築の発展
画像引用: 芸術愛好家の家
では、マッキントッシュとは何者なのでしょうか?
チャールズ・レニー・マッキントッシュ、1868年グラスゴー生まれの建築家であり、モダンアートのアーティスト、家具・インテリア・照明・テキスタイル・グラフィックのデザイナーでもあります。
16歳で地元グラスゴーの建築家に師事、同時にグラスゴー美術大学にも入学して建築家を目指しました。当時、建築家になるためには5年間勉強する必要があり、マッキントッシュも5年間師匠の下で勉強をしています。
その後、設立間近の設計事務所にドラフトマンとして採用され、後に経営パートナーにもなっています。
19世紀後半のグラスゴーは造船や重工業などでイギリス第2の都市にまで発展しています。建築資材や電気、技術分野で発展し、伝統的なものを重視するロンドンに対し、モダン的なものを好む都市へと成長しています。
マッキントッシュもその気運に乗って、未だ伝統的な風潮にある建築において、革新的な技術を取り入れながら独自性と機能性を重視したモダニズム理念を確立していきました。
自然にはない色使いをするグラスゴースタイル
画像引用:グラスゴー美術大学新校舎
19世紀末、ちょうどマッキントッシュが活動を始めた頃から、エミール・ガレやアルフォンス・ミュシャのような、自然をモチーフとしたデザインが主流となってきます。アール・ヌーボー時代の到来です。
この頃、イギリスではウィリアム・モリスの主導によりアーツ&クラフツ運動が始まります。
この運動は、産業革命以来の商業主義によって大量生産された粗悪品商品を否定し、産業革命前の手仕事と職人技の再評価による生活の美化を目的としたものでした。
当時グラスゴーで活動していたマッキントッシュもこの運動に傾倒し、アール・ヌーボー様式を取り入れたデザインの作品を残しています。
しかし、ウィロー・ティールームに見られるように、彼はデザインに直線的で自然にはない白・黒・銀などの独特な配色をとりいれ、グラスゴースタイルを打ち出していきます。アーツ&クラフツ運動から離脱です。
当時のグラスゴーでは工業と商業によって発展したという背景から、ロンドンの様な伝統的なものよりもモダン的なものが好まれる傾向にありました。
そういった背景も、マッキントッシュのデザイン変遷に大きな影響を与えたと言えるでしょう。
そして、第一次世界大戦終戦とともに、アール・ヌーボーの時代からアール・デコの時代へと移り変わっていくのです。
グラスゴー美術大学新校舎:1つの建物に2つの対比するデザインが同居するという独特な建築
画像引用:ウィロー・ティールーム
マッキントッシュのデザインの変遷が分かるものとして、彼の名前を名実ともに世に知らしめたグラスゴー美術大学新校舎が有名です。
グラスゴー市の予算の都合で左右の建築を2期に分けて作られており、様式が異なります。
第1期に作られた中央部のホールとウェストウィングは緩やかな曲線美が特徴のアール・ヌーボー様式です。
第2期に作られたイーストウィングは幾何学的なデザインが特徴のアール・デコ様式と、1つの建物に2つの対比するデザインが同居するという独特な建築物が出来上がったのです。
建築家として活動していた時期は短く、また作品として残っている建物も、ヒルハウスやウィロー・ティールームなど、それほど多くはありません。
マッキントッシュは晩年、舌癌を患うまで南フランスに滞在し、水彩画を描いて過ごしていたということで、建物や家具よりもスケッチやデッサン、リトグラフの方が多く残されたようです。
丸・三角・四角の3つの形状と赤・青・黄色の3原色を基礎としたバウハウスのモダニズム
画像引用:デッサウ校舎
さて、イギリスのアーツ&クラフツ運動は、世界各地の芸術家や建築家に多くの影響を与えました。
マッキントッシュがザ・フォーという創作グループを作り上げたように、各地で性別や国籍を超えた創作グループが結成されていきます。
この機運は、これまでの師匠と弟子といった縦のつながりよりも、横のつながりを発展させていきます。
バウハウス:世界初の本格的なデザイン教育機関
画像引用:バウハウスの教育システム構造図
では、バウハウスとは何でしょうか?
バウハウスは、1919年にドイツのワイマールに誕生した世界初の本格的なデザイン教育機関です。
この時代、技術を習得するための職業訓練校のようなものは世界中に存在しましたが、産業に芸術を取り入れた教育を施す機関はバウハウスが最初でした。
実はワイマールという町は、ワイマール条約が採択された地というだけでなく、ゲーテやシラーと言った有名な芸術家が活躍した文化都市としても有名で、多くの芸術家が活躍した土地でもあるのです。
そして19世紀後半、イギリスで起こったアーツ&クラフツ運動は、このワイマールにも普及しました。
1917年バウハウスの創設者でもあるヴァルター・グロウピウスも名を連ねる「ドイツ工作連盟」という建築家やアーティストによるグループが誕生します。
その後多くの建築家や芸術家が、産業革命以降行われていた粗悪品の大量生産に異議を唱え始めました。
バウハウスはそんな時代背景の中誕生したのです。
バウハウスの建築理念からドイツモダニズムデザインが世界中に広まった
バウハウスが誕生した年はヒトラーがナチス党党首になる2年前です。そのため、バウハウスの活動はヒトラーが独裁者へと邁進する時期とちょうど合致しているのです。
ナチスによる弾圧はバウハウスにも及び、その結果わずか14年という短い期間で閉校へと追い込まれてしまいました。
バウハウスでは、初代校長となった創始者のグロウピウスの後、スイス人建築家のハンネス・マイヤー、ドイツ人建築家のミース・ファンデル・ローエが校長を務めています。
閉校後も、講師陣やローエなどがバウハウスの掲げた理念「全ての造形活動の最終目的は建築である」と、3つの形状と3原色を用いたモダンデザインを時代に継承すべく、新しい学校の建設を試みました。
ですが、それらもナチスに弾圧され、結果、多くの建築家や芸術家がアメリカへと亡命していきました。
しかしながら、この亡命によってドイツで生まれたバウハウスの理念とドイツモダニズムデザインは、世界中へと広まることとなったのです。
バウハウスが残したドイツ・モダンデザインは100年以上がたった現在でも健在
画像引用:ブロイヤーの椅子
世界で活躍する建築家や芸術家の中には、バウハウス出身者やバウハウスで教鞭をとっていた者も少なくありません。
その中でも世界四大建築家として名をはせたミース・ファンデル・ローエや、家具デザイナーとして多くの近代的なデザイン家具を生み出したマルセル・ブロイヤーなどが、建築方面では有名です。
1925年、バウハウスはデッサウに移転しています。このデッサウの校舎は初代校長グロウピウスの設計で、カーテンウォールが特徴的な近代建築の代表の1つです。
また、デッサウ校内の講堂で使用している折りたためるスチールパイプ製の椅子はマルセル・ブロイヤーのデザインで、照明はマックス・クライエプスキのデザインです。
建築物や家具は勿論、多くの芸術家がテキスタイルデザインや絵画を残しているほか、バウハウスの基本でもある3つの形と3原色を使った子供のために積み木など、バウハウスが残したものは多岐に渡ります。
これらドイツで誕生したモダニズムは、世界各国に渡りバウハウス創立から100年以上がたった現在でも、その理念は生き続けています。
まとめ
19世紀末から20世紀初頭のヨーロッパで起こった2つの美術運動は、2つのモダニズムを生み出しました。
アバンギャルドの急先鋒と言われたマッキントッシュの機械的なモダニズムと、丸・三角・四角の3つの形状と赤・青・黄色の3原色を基礎としたバウハウスのモダニズムです。
どちらもアーツ&クラフツ運動の影響を受け、その中から新しい美意識を生み出し、現代の建築につながるような機能的なデザインを作り出していったのです。