琉球王国の歴史「首里城」が持つ独自の建築技術とその魅力

首里城は、1429年から1879年までのおよそ450年間、日本列島南西部に実在した琉球王国の王城です。

今では沖縄県を代表するシンボルとしても有名な首里城ですが、一見日本の建物に見えない建築様式には、王国時代に親交のあった中国の影響を受けています。

今回は、そんな琉球王国の歴史とも呼べる首里城の魅力をお伝えしていきます。

琉球王朝を象徴する首里城の建築技術


琉球王朝はかつて沖縄本島を中心に、奄美大島、先島諸島(さきしましょとう)まで勢力を伸ばしていた時期がありました。

また、南西諸島という当時の日本国と中国(明、清)に挟まれる位置関係にあったことから、両国との交易も盛んに行われていた背景があります。

幾度にわたり焼失した首里城

そんな交易のハブとなっていた琉球王朝に建立された貴重な建物ですが、2019年の火災を含めて5回も焼失しています。

1度目の焼失は、1453年に王位継承による内乱『志魯・布里の乱(しろ・ふりのらん)』で全焼。

2回目は1660年に起きた火災で焼失、その後3回目の焼失を1709年に迎え、第二次世界大戦中の1945年、沖縄戦にてアメリカ軍の戦艦、ミシシッピの艦砲射撃を受けて焼失しました。

復興には長い時間を要しましたが、2019年令和元年に、御庭を囲む正殿、南殿、北殿と、書院・鎖之間(さすのま)、二階御殿、黄金御殿、奉神門などを含む全8棟が火災で全焼してしまいました。

建設業における昨今の技術向上もあり、完工までの期間は想定よりも短縮されそうですが、首里城には日本古来の木造建築が主なので、卓越した職人の技術が必要になります。

首里城建築の魅力とその建設技術

5回の消失を経ても、何度も再建されている首里城の魅力について迫っていきましょう。

美しい曲線を描く城郭の石積み技術

首里城と言えば、中国との繋がりを強く感じさせる、曲線的なフォルムの屋根などが特徴的です。

建物の構造としては、特徴的な城壁(外郭)に囲まれた内側(内郭)に、王宮や宮殿をはじめとする正殿などの建物が建てられています。

このような構造は、首里城に限ったものではなく、沖縄本島を中心に各地に点在していた、グスク、スク(城)と呼ばれる遺跡群に共通する特徴です。

また、グスクは石垣の高い構築技術も大きな特徴で、首里城の城郭石積みにも『野面積み(のづらづみ)』と呼ばれる、石の加工を行わない技法が使われています。

この技法では石を加工しないため、建材である石同士が嚙み合わず、自然に積み上げるには高い技術を持つ職人が必要です。

日本の城でも見られる石垣の建築技術は、日本との長い交流から伝わった技術であることが、随所に見られる技法からも感じ取れることでしょう。

鮮やかな赤色と特徴的な龍の装飾が特徴的な唐玻豊

唐玻豊(からはふ)は、首里城の顔とも言える正殿部分です。赤瓦と随所に描かれた龍が日本の城とは違う雰囲気を醸し出しています。

首里城や唐玻豊という名前は分からずとも、写真や旅行のパンフレットで見たことがあるという人は多いのではないでしょうか。

唐玻豊の鮮やかな色使いは、日本の鳥居などを思わせる伝統色を用い、当時の中国(清清王朝の時代)を代表する皇帝、乾隆帝(けんりゅうてい)を象徴する「龍」を装飾しています。

部屋の木造建築には日本由来の技術を取り入れ、細かい装飾にはどこか中国の文化的な意匠をあしらったものが多く、異文化間の影響を色濃く受けた建築に仕上がっているのです。

また、この部屋は中国皇帝への親書を送るときなど、特別な儀式の際に使用されていました。

文化的な建築技術に歴史的価値が認められ世界遺産に

首里城跡は2000年(平成12年)12月に『琉球王国のグスク及び関連遺産群』として、歴史的な価値の高さが認められ、世界遺産に登録されました。

中でも正殿の基壇(きだん)の遺構(いこう)は、首里城跡を象徴する文化財と言われています。

基壇は建物を支える土台のことを指します。現在の建築では、コンクリートの基礎が土台としてのデファクトスタンダードですが、古代日本では石を積み重ねて建物の土台にしていました。

前項の石垣の技術と重複しますが、世界遺産として認められている以上、歴史的に見ても相応の文化的な価値が認められていると言えるでしょう。

まとめ

沖縄県を代表する観光スポットでは、琉球王朝時代の歴史に加え、日本と中国の文化が融合したような琉球王朝独自の世界観を感じられます。

南国の島にアジアの民族的思想を思わせる意匠は、首里城でしか見られない不思議な魅力の一つと言えるでしょう。

高い練度を要する石垣の構築技法から、漆の塗装、内装には龍をあしらった金箔の装飾が、王制だった頃の名残りとして、ぜいたくな空間を演出しています。

しかし、2019年の火災によって全焼したため、2020年の段階では火災後に閉場された区域の一部を公開している状態です。

着実に復興してきてはいますが、歴史的に見ても5度目の焼失を迎えた首里城を、どれほどの再現度で再建できるのかなど、課題は多いことでしょう。

ですが、幾度も焼失と再建をくり返す首里城の姿は、600年近い年月を経てもその美しさを損なわず、復旧していくのかもしれません。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です